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地震から2年か
去年は中古CD屋で黙祷をした
今年は運転中だったから黙祷しなかった

去年、店がアナウンス流して、黙祷を行いますみたいに言った
周りの客もみんな黙祷していた



俺はいっつも思うのであるが、こういう黙祷ってのはやはり必要だなと思う
同じように「ご冥福お祈りします」とか「お察し申し上げます」という言葉もなんだかんだ必要だと思う
これがなんの慰めにもならないこともわかってる
わかってて必要だと俺は思っているんだ
こういうのをただの社交辞令として嫌う人も多い

だが、だったら本当に死んだ人や遺族を慰めることができる行為が他にあるのか?と
何もない
金やら物資の支援はできても、心の支援はやはりほとんど出来ないものと思う
人の死ほど解せないものはないな
だって誰も死んだことがないんだものな
死んだ人は絶対に戻ってこないし
なんにも出来ないんだ
つくづく死ほどわからんものはない

だから、どんなにがんばったところで人の死に対してしてやれることといえば、「ご冥福をお祈りします」とこういうのが精一杯なのである
社交辞令というときこえは悪いが、これが精一杯じゃないか

だが、必要だとは思う
プライベートで、ダチとかに対しては俺はめったに言わないのであるが、もしも手紙の中だったりテレビのアナウンサーだったりしたら、云うんだろうなあと思う

何故必要だと思うのかというと、まあなんとも言葉に表現しようのない感情でございます、というのを表明するのにはうってつけなんじゃないかと思うからだ
そうして自然に発生した言葉なんではないだろうか


話が飛ぶようだが、こんだけ死後の世界ってのは図りようがないのに、葬式はやるし、墓も立てるだろう
無宗教の家だって、人が死んだらまず葬式をあげる
墓を立てない人なんてほとんどいないはずだ
仏教徒じゃなくても坊さんを呼ぶ
墓参りもする
黙祷もする

拡大解釈するようだが、もしも人の死に際してかける言葉を「社交辞令」とするのであれば、こういった墓立てたりなんなりって一連の所作も「社交辞令」なのではないか?
でもだからといって、やらないわけにはいかないだろう


人の死が永遠に解せぬ現象である以上、こういった所作は必要不可欠であると俺は思う

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プロフィール
HN:
かずお爆弾
性別:
男性
自己紹介:
千葉が好きな普通じゃない日本人。最近ピアニストに転身した元ギタリスト。単車キチガイ系シンガーソングライダー。ニトロ爆弾/BOOViES/韮。大型二輪:DSC1100 四輪:ソアラZ20。県立千葉高校 → 千葉大学工学部機械科、ジークンドー卒。ライブのお誘いお待ちしてます。民主主義反対!
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